メディアトーキング物語 第6回
41歳でようやく出会った“天職”──
遠回りの人生が一本につながった日と、
「安心する顔がいた」と言われた意味
――メディアトーキング代表・山元将永
連載コラム|メディアトーキング物語 第6回 41歳でようやく出会った“天職”── 遠回りの人生が一本につながった日と、 「安心する顔がいた」と言われた意味 ――メディアトーキング代表・山元将永
振り返ってみると、私の人生は「迷い」と「遠回り」の連続でした。
何者でもない自分。取り立てて突出した才能もない。やりたいこともこれといって見えない。
それでも、ひとつだけ不思議に続いていたものがある。
それは、「人の人生が気になる」という感覚でした。
人はどんなふうに生きてきたのか。なぜその選択をしたのか。どんな失敗をして、どう立ち上がってきたのか。
それを知りたくて、私は本を読み、映画を観てきました。
そしてその延長線上に、「新聞記者」という仕事との出会いが待っていました。
41歳。世間から見れば、決して早くはない年齢です。
でも私にとっては、ようやく「これだ」と思える仕事に巡り合えた瞬間でした。
この第6回では、
本が作ってくれた“文章の土台”、若い頃に全落ちした記者試験、群馬で味わった孤独と一人旅で触れた親切、
独立して初めて知った経営者の痛み、そして経済新聞の記者になってからの「記事だけじゃない仕事」、
「やまちゃんにはいつも世話になってるから」の広告営業、そして「安心する顔がいた」と言われた日のこと――
こうした出来事がどう一本の線になり、現在のメディアトーキングへつながっていったのかをお話しします。
■ 1 本が人生を支えてくれた──歴史と自伝がくれた“文章の土台”
私は子どもの頃から、本が好きでした。ゲームよりも、スポーツよりも、
「人間がどう生きたかが書いてあるもの」に惹かれました。
特に夢中になったのが、歴史書や武将・偉人の伝記、自伝、評伝といった本です。
そこには順風満帆な人生などほとんど出てきません。
敗北し、裏切られ、失敗し、それでも前に進んでいく人たちの姿が生々しく描かれている。
自分の人生がうまくいっていないと感じるときほど、そういう本に救われました。
「ああ、自分一人だけじゃないんだ」
「こんな遠回りをしている人が、ちゃんと道を切り開いている」
本を読むうちに、無意識のうちに身についていったものがあります。
それが、文章の“流れ”です。
どこで息を入れるか。
どこで一度落として、どこで盛り上げるか。
どこを太く書き、どこをそぎ落とすか。
どこで感情を引き出すか。
数え切れないほどの本を読んできた時間が、
のちに新聞記者として原稿を書き続けるうえで、
とてつもなく大きな土台になっていました。
「本を読んでおいて本当によかった」
これは、今の私の正直な気持ちです。
■ 2 古い本に記されていた「山元家は徳川の隠密だった」──縁という感覚の芽
私には、ずっと心の片隅に残っている一文があります。
それは誰かから直接聞いた話ではありません。
郷土史や言い伝えをまとめた、古い本の中に、さらりと記されていた一節でした。
「山元家は、徳川の隠密だった」
史料的な裏付けがあるわけではない。
系図が残っているわけでもない。
正直に言えば、信じろと言われても困る話です。
それでも私は、この一文を読み飛ばすことができませんでした。
理由の一つは、薩摩という土地の性質を知っているからです。
薩摩藩は外部の侵入を極端に警戒した土地で、
「隠密を避けるために薩摩弁が成立した」と言われるほど、よそ者を拒む空気があったとも言われています。
“二重鎖国”と呼ばれるほど、閉じた社会でした。
さらに関ヶ原以後、徳川は薩摩を仮想敵国として想定し、
薩摩が陸路で北上してくる可能性を警戒して、熊本城、小倉城、姫路城と、要衝に堅牢な城を築いたとも言われます。
そんな場所で「隠密」などしていれば、見つかった時点で命はない。
普通に考えれば、殺されてもおかしくありません。
それなのに、もし「隠密だった」という話が残り、
しかも生き延びた人物がいたのだとしたら――
その理由は何だったのか・・・。
ここから先は、完全に私の飛躍です。
けれども私は、半ば本気でこう考えています。
生き残れた理由は、相手の懐に入るのが、異様なほど上手かったからではないか。
疑われる前に、敵として認識される前に、空気を読み、警戒を解き、懐へ入る。
懐に入ることで、逆に懐柔してしまう。
「こいつは危ない存在じゃない」と思わせる力。
証明はありません。
けれども私は、この“懐に入る力”という感覚に、強い既視感を覚えるのです。
そしてそれが、後になって、自分自身の仕事や役割と、妙に重なって見えてくることになります。
■ 3 記者試験全落ち──それでも消えなかった“原点”
実は、新聞記者になりたいと思ったのは、もっとずっと若い頃のことです。
大学院時代、私は長崎新聞・佐賀新聞・熊本新聞など、地方紙の記者試験を受けました。
結果は――全滅。
自信喪失、挫折、悔しさ。
「やっぱり自分には力がないんだな」と思い知らされる経験でした。
ただ、不思議なことに、それでも心の奥で消えなかった思いがあります。
「人生には、語られなければ消えてしまう物語がある。それを記録したい。」
大学時代に読んだ「郷土の古老の話をまとめた本」の影響も大きかった。
その土地に生きた人たちが、小さな声で語り残してきた物語。
それを拾い集めて記録していかなければ、歴史からこぼれ落ちてしまう。
「いつか自分も、そんな仕事ができたらいい」
そう思っていたのに、現実には記者試験に全部落ちてしまった。
そこから私は、ログハウスの仕事に飛び込み、輸入家具メーカーで営業をし、独立してネットショップを運営し……
まったく別の道を歩き出しました。
頭の片隅にはいつも「記者になりたかった自分」がいましたが、
それはどこか“過去の夢”のように棚に上げられていた時期です。
■ 4 群馬で味わった“骨の髄までの孤独”──声を出すタイミングすら失った日々
ログハウスの仕事で群馬に来た頃、私は人生でいちばん孤独でした。
休日、誰とも話さないまま一日が終わる。
あるとき、久しぶりにファミレスに行ったときのこと。
店員さんに「お一人様ですか?」と聞かれて、「はい」と答えた瞬間、
「あ、久しぶりに声を出したな」と気づいたんです。
「誰とも会話しない日」が当たり前になってくると、自分が世界から切り離されているような感覚になる。
でも、この“異常な静けさ”の中で、私の中には、ある欲求がどんどん育っていきました。
「人に会いたい」という欲求です。
誰かと話したい。自分の話を聞いてほしい。誰かの話を聞きたい。
その気持ちが強くなればなるほど、私はあることを学びました。
「きっかけを作るのは、全部自分なんだ」
声をかけなければ、何も始まらない。踏み出さなければ、世界は広がらない。
このとき育った“自分から一歩踏み出す力”は、のちの取材や懇親会、マッチングの場で大きな武器になっていきます。
孤独はつらい。けれども、その孤独が「人の懐に入る力」の大事な土台を作ってくれていたのだと思います。
■ 5 関東平野という“大都会”へ──群馬に行くのは、やっぱり何か縁がある
宮崎生まれの私にとって、「関東」というだけで、もう大都会に赴く感覚がありました。
九州の田舎から、関東平野へ。距離だけじゃなく、心理的な距離も大きかった。
だから群馬で働くことが決まったとき、私はどこかでこう思っていました。
「やっぱり何か縁があるんだろうな」と。
都城の古老の言葉を集めた本の中にあった「徳川の隠密」の話。
あれは真偽は分からない。でも、私の中に“縁”という感覚を芽生えさせたのは確かでした。
そして群馬に来た私は、無意識のうちに「縁の手がかり」を探すように、県内をあちこち巡り始めたのだと思います。
■ 6 世良田東照宮で感じた徳川の気配──「偶然」に見えた縁が輪郭を持った日
群馬に来てすぐ、私はいろいろと群馬めぐりをしていました。
その中で、尾島というところに「世良田東照宮」があることを知ります。
「徳川発祥の地」として知られる場所が、群馬県にある。
その事実を知ったとき、胸の奥が少しザワつきました。
宮崎県都城市は、バリバリの薩摩藩の領地です。
幕末好きな私にとって、「群馬県」は、薩摩=官軍に対して、群馬=賊軍という認識がどこかにありました。
薩摩っぽが賊軍の地に乗り込む、みたいな、時代錯誤な感情も少しはあった(いや、ほんと時代錯誤なんだけど)。
でも、そういう“歴史の空気”を感じてしまう自分が、私は嫌いじゃありません。
そして――
「山元家は徳川の隠密だった」
あの古老の話と、世良田東照宮という場所が、頭の中でふっとつながる。
もちろん、証拠はない。理屈もない。
でも私にとっては、「縁」というものが、ただの気分ではなく、人生を動かす“感覚の羅針盤”のように思えた瞬間でした。
私はこう思いました。
「やっぱり、会う人・行く場所には何かしらの縁がある」
そして縁は、あとから答え合わせのように、何度も顔を出してくる。
■ 7 一人旅で気づいた「親切の記憶」──価値は“心の動き”に宿る
孤独の最中、私は一人旅に出ました。各地を巡り、景色を見て、名物を食べて回る。
けれども不思議なもので、数年、十数年と経ってから振り返って本当に記憶に残っているのは、
観光地の名前でも、名物の料理でもありませんでした。
心に残っていたのは、人の親切の記憶です。
その象徴が、香川県での「讃岐うどん」のエピソードです。
スマホもまだ普及していない頃、「本場の讃岐うどんが食べたい!」と思い立った私は、
どこに行けばいいのか分からず、道端でうろうろしていました。
通りすがりの男性に勇気を出して声をかけます。
「すみません、この辺で美味しいうどん屋さんありませんか?」
「ついてきて!車で案内してやるよ」
わざわざ車で先導してくれて、とっておきのお店まで連れて行ってくれた。
そして店に入ると、店主が気さくに話しかけてくれて、最後には「これ、よかったら」とコーヒーをサービスしてくれました。
観光地の名前はうろ覚えでも、そのときの「親切の温度」だけは、まるで昨日のことのように蘇る。
私はこの経験から、一つの真理を確信しました。
「人にとって本当に価値があるのは“物”ではなく“心の動き”だ」
この感覚は、のちに取材で人と接するときの基準になります。
記事で「情報」を伝えるだけでなく、その人の「心の動き」が伝わるかどうか。
メディアトーキングとして「価値を生む会話」を重視する背景には、この旅での体験が深く刻まれています。
■ 8 自営で知った“経営者の痛み”──「稼がなきゃどうしようもない」という現実
輸入家具メーカーを辞めて独立した私は、ネットショップを立ち上げ、家具販売で生計を立てようとしました。
ところが、独立直後に襲ってきたのがリーマンショックです。
景気は一気に冷え込み、高額商品は特に動きにくくなる。
売れない。お金が回らない。家族を守れるのか不安になる。
そのプレッシャーは、胃のあたりにずっと重石が乗っているような感覚でした。
そこで痛感したのは、「社長業は、とにかく“稼がなきゃどうしようもない”んだ」という現実です。
サラリーマン時代には見えていなかった「経営者の孤独」や「資金繰りの恐怖」を生々しく体験しました。
この経験が、のちに「社長はこんな気持ちで会社をやっているんだ」という理解につながります。
だからこそ、新聞記者になったとき、社長の愚痴や悩みを聞いても、どこか他人事には聞こえなかった。
「ああ、その感じ、よく分かります」と、身体で共感できる感覚があったのです。
■ 9 ハローワークで見つけた一枚の求人票──「これを逃したら一生後悔する」と思った瞬間
自営生活も長くなり、40歳が近づいてきた頃。家族のこと、将来のこと、これから自分がどう生きていくか――
さすがに「このままではマズい」と感じ始めていました。
そんなとき、ハローワークで偶然目に入ったのが、「群馬経済新聞 記者募集」という求人票でした。
その紙を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じました。
「ああ、これだ。これを逃したら、一生後悔する。」
若い頃に全滅した「記者試験」の記憶が一気に蘇ってきました。
・人生には語られなければ消えてしまう物語がある
・自分は本が好きで、人の人生を読むのが好きだ
・人の話を聞くのが好きで、話すのも好きだ
・経営者の孤独も、多少は分かる
それらが、一気に線でつながる感覚があったのです。
「受からなくてもいい。でも、受けなかったら一生悔やむ。」
そう思って、私は応募しました。
■ 10 面接で、人生が一本の線になっていく感覚
面接の日。自分でも驚くくらい、言葉がスラスラと出てきました。
・子どもの頃、ひねくれ者と言われた話
・転校先で人の優しさに触れて変わったこと
・本が好きで歴史や自伝ばかり読んできたこと
・ログハウスでの孤独な日々
・香川で讃岐うどんの店に連れて行ってもらった話
・輸入家具会社で「第一印象がいい」と言われたこと
・ネットショップの独立で、経営者の痛みを知ったこと
・Facebook同級生グループで、場づくりの喜びを知ったこと
・そして、都城の古老が語った「徳川の隠密」の話と、群馬で見つけた世良田東照宮の話
バラバラだったはずの経験が、一本の物語として繋がっていく。
自分の口から出ているのに、話しながら「そうか、自分の人生はこうつながっていたのか」と、自分で納得している自分がいました。
面接が終わったとき、心の中でこう思いました。
「これで落ちたら、どこにも受からない。でも、今日は自分を出し切れた。」
そして――採用!
41歳にして、私はようやく「記者」という職業と出会いました。
■ 11 記者は“天職”だった──記事を書く以上に「人に会うのが楽しい」
取材の日々が始まると、私は初めて「仕事が楽しい」という感覚を味わった。
普通なら「明日から仕事かぁ」とちょっと憂鬱になる日曜の夕方。
でも私は、なぜかワクワクしていた。
「明日もまた、あの社長に会いに行ける」
「どんな話が聞けるだろう」
「どんな価値の種が見つかるかな」
日曜日の夕方に、月曜日のことを考えてテンションが上がる。
自分でも驚いた。
そして気づきました。「これは、自分にとって“天職”かもしれない」と。
毎日、社長に会いに行く。会社の歴史、事業の中身、その人自身の人生を聞く。
これは、私が好きで読み続けてきた歴史書や自伝を“生身の口から聞く”ような時間でした。
文章を書くことも苦にならない。むしろ、取材で聞いた話をどう整理し、どう読者に届けるかを考えるのが楽しかった。
そしてもう一つ、記者としての仕事には大きな特徴がありました。
それは、「記事書きだけが仕事ではない」ということです。
■ 12 沼田と館林に引き寄せられる──徳川の縁が濃い土地で仕事が回り始めた
新聞記者になってから、群馬県内を回ることが格段に増えました。
ログハウス時代は県外がほとんど、家具屋時代も県外、国外が主で、県内の企業を回ることはほとんどなかった。
だからこそ、県内を走り回る記者の仕事は、群馬という土地が一気に「自分のフィールド」になっていく感覚がありました。
その中で、私はとくに沼田と館林に、強い縁を感じるようになります。
どちらも、徳川の縁が強いところ。
そして結局、私は今、館林に住んでいます。
館林は、記者の間でも「保守的な街」と言われていて、誰も担当したがらなかった。
でも私は、すごく相性が良かった。ここに住んでもいいなと思ったくらい、水が合った。
仕事も順調だった。
新聞社で初めて館林特集を自分で企画し、実行した。
その成功体験が、私の中で確信に近いものを作ります。
「新聞記者という職をやっていれば、食っていける!」
なんの根拠もないのに、そう思った。
それぐらい、天職に出会った感覚があったのです。
■ 13 新聞記者=情報屋/隠密=情報屋──自分の役割が重なった瞬間
あるとき、ふと頭に浮かんだことがあります。
天職だと思った新聞記者――これって結局、「情報屋」だよな、と。
もし本当に、山元家が徳川の隠密だったのだとしたら。
隠密もまた、情報屋です。
立場も時代も違うけれど、やっていることの“骨格”は同じではないか。
「人から話を引き出し、世の中の見えない構造を読み、必要なところへ届ける」
これって、記者の仕事そのものだ。
理屈で証明できる話ではありません。
でも私は、その一致に、言葉にしづらい納得感を覚えました。
「自分は偶然この仕事を選んだんじゃないのかもしれない」
そんな感覚すらあったのです。
■ 14 「やまちゃんにはいつも世話になってるから」──先に価値を渡す広告営業
インターネットの登場で、ニュースや情報の流れは一気に加速しました。
取材してから数日後に紙面になる新聞は、「速報性」という点ではどうしてもネットに勝てません。
また景気も良くない時代。広告宣伝費をバンバン使える企業は減り、新聞の購読者数も伸び悩む。
新聞社も、「記事を書いていればいい」という時代ではなくなっていました。
実際、記者の仕事は「取材して記事を書く」だけではありません。
・新聞購読の営業
・広告の営業
も重要な仕事です。
入社して間もない頃、私はこう思いました。
「ただ記事を書いて、その見返りとして広告をもらおうなんて、これはかなり至難の業だな」
自営を経験した身からすると、
「大して役にも立っていないのに、広告出してくださいと言うのは虫が良すぎる」
という感覚があったのです。
だから私は、取材のときに一つ決めていたことがあります。
「雑談で終わらせない」ということ。
社長の困りごとや「こんな人いない?」という話を聞いたら、後日、必ず何かしら情報を持って行く。
・人を紹介する
・セミナーや補助金の情報を届ける
・他社の面白い取り組みを共有する
そういうことを、コツコツと続けていました。
つまり、“記事にならない情報”を使って社長の役に立つことを意図的にやっていたのです。
その積み重ねが、広告営業のときに大きく効いてきました。
年に何度か行われる「特集企画」で広告を集めなければならないとき。
私はいつものように社長のところへ行き、こう切り出します。
「社長、実は今度こんな特集をやるんですけど……」
申し込み用紙をスッと差し出すと、多くの社長がこう言ってくれるのです。
「やまちゃんにはいつも世話になってるから、いいよ!」
「山元くんが言うなら出すよ」
ほとんど説明をしなくても、気前よく承諾してくれる。
特集を組んでも、電話一本で広告が集まり、あっという間に予算達成。
これは「私の営業力がすごいから」ではありません。
単純に、先に“価値”を渡していたからです。
この経験は、私の中で一つの“原則”になりました。
「価値は、先に渡す」
そして、この姿勢こそが、のちのメディアトーキングの根っこになっていきます。
■ 15 記事にならない“雑談”こそ、価値の宝庫だった
記者として日々社長と話していると、あることに気づきます。
記事として紙面に載る話より、雑談で出てくる話のほうがよっぽど面白い。
・まだ公表できない新規事業の構想
・人材の悩み
・業界の裏側
・家業を継ぐことへの葛藤
・社長自身のコンプレックス
・「本当はこうしたいんだよね」という本音
こうした話は、なかなか記事には書けません。
でも私は直感していました。
「この記事にならない情報こそ、価値の“原石”なんじゃないか?」
ある会社の悩みが、別の会社の強みで解決できそうに思えたり、
ある社長のコンプレックスが、別の業界ではとんでもない価値になるように見えたり。
断片と断片が、頭の中でつながる瞬間がある。
そのとき、背中に鳥肌が立つんです。
「あ、この2つは絶対につながる」
それが確信に近い形で見えるようになっていった。
この感覚が育っていくにつれて、私はだんだんと「自分は記事を書きに行っているんじゃない」と感じ始めました。
自分は“価値を作りに行っている”んだ
これが、メディアトーキングにつながる大きな転機となります。
■ 16 「安心する顔がいた」──存在そのものが価値だと気づいた日
取材を何年も続けるうちに、懇意な社長さんも増えてきました。
あるとき私は、そうした社長たちを集めて小さな懇親会を開くことにしました。
同業種の集まりは世の中にいくらでもありますが、私はあえて異業種の社長ばかりを集めました。
「山元が面白いと思う人たちを呼びました」
そんな、いわば“山元フィルター”で選んだ集まりです。
ある日、その懇親会の会場に少し緊張した様子の社長が入ってきました。
初対面の人ばかりの場に足を踏み入れるのは、社長といえども緊張するものです。
その社長がふと顔を上げ、私の顔を見つけた瞬間――
ホッとした表情をして、こう言ったのです。
「ああ、良かった。山元さんの顔があって安心した」
その一言を聞いたとき、胸の奥がじわっと熱くなりました。
記事がうまく書けたとか、広告が取れたとか、そういう評価とは違う。
自分という存在そのものが、この場の安心材料になっている
そう感じた瞬間でした。
私は心の中でこう思いました。
「ああ、俺は“場を整える人間”なんだ。人が安心して本音を話せる空気をつくるのが仕事なんだ。」
これは、肩書きや実績や資格とはまったく違う種類の価値です。
子どもの頃、ひねくれ者だった自分。群馬で誰とも話さないほど孤独だった自分。独立して失敗ばかりしていた自分。
その全部が、「人の痛みや不安に敏感な自分」を作ってくれていた。
だからこそ、緊張している社長の顔を見れば、その空気をふっと和らげる方向に自然と場を動かしてしまう。
そのとき、私は一つの“役割”を自覚しました。
自分は、“価値をつなぐ人”であり、“安心を生む人”なんだ。
■ 17 群馬の名字の本で見つけた「山本」──理屈じゃない縁が最後に背中を押した
もう一つ、個人的に強烈に覚えているエピソードがあります。
ある日、書店でたまたま「群馬県の名字を解説した本」をパラパラめくっていたときのこと。
そこに、「群馬県にも山本家が少ないながら存在している」と書かれていた。
山本。山元。音の響きが、どこか近い。
もちろん、直接つながる証明なんてない。
でも、私の感覚は勝手に反応してしまうんです。
しかも、その本によると、群馬県で山本姓が多い地方は、
1番目が北毛(沼田方面)
2番目に多いのが館林市
だという。
理論的根拠はないにしても、私はものすごく縁を感じました。
だって、記者として強く縁を感じた場所が、まさに沼田と館林だったのだから。
偶然だと言われれば、それまでです。
でも私は、こういう“偶然の形をした何か”を、人生の中で何度も見てきました。
そして私は、そのたびに思うのです。
縁って、こういうふうに、後から何度も確認させてくる
■ 18 すべての経験が一本に収束し、メディアトーキングへとつながっていく
本を読み続けた時間。ひねくれ者と言われた子ども時代。転校先で受けた優しさ。群馬で味わった孤独。
一人旅で出会った親切とコーヒーの味。家具会社で言われた「第一印象がいい」という一言。
独立して味わった経営者の痛み。Facebook同級生グループで知った“場をつくる喜び”。
経済新聞社での取材と記事書き。ネット時代の中で広告営業の厳しさを知り、
「先に価値を渡す」ことを学んだ経験。記事にならない雑談の価値に気づいた日々。
そして、懇親会で言われた「安心する顔があって良かった」という言葉。
さらに、都城の古老の「徳川の隠密」という話と、群馬で出会った世良田東照宮、
沼田と館林に引き寄せられていく感覚、名字の本で見つけた「山本」の分布。
そういう“理屈じゃない縁”まで含めて、すべてが一本の線になっていきます。
「会話から価値を生む。人と人、企業と企業を“会う・話す”でつなぎ、物語をつくっていく。」
これが、メディアトーキングの原点であり、私・山元将永という人間の天職です。
第6回は、41歳で新聞記者になり、「自分の生きてきた意味」がようやく形を持ち始めたところまでの話でした。
次回・第7回では、
「記事を取りに行くのではなく、価値を“作りに行く”という発想がどうメディアトーキングというカタチになっていったのか」
を、さらに具体的にお話ししていきます。