第1回「ひねくれもんの少年が、人とのつながりに目覚めるまで」
―― メディアトーキング代表・山元将永
ひねくれもんと言われた幼少期
私(山元将永 やまもと・のぶひさ)は、1972年12月、宮崎県都城市で生まれました。自分で言うのも変ですが、ごくごく普通の家庭の子どもだったと思います。
父は消防署に勤める公務員。いわゆる団塊世代の両親で、「協調性」「世間体」「周りに迷惑をかけるな」という価値観の中で育ちました。今振り返ると、その“ちゃんとしていなきゃいけない空気”が、とにかく窮屈で仕方なかった。
早く大人になりたい。ここから抜け出したい。子どもの頃、ずっとそう思っていました。
性格はと言えば、かなり我が強くて自己中心的。「人のことなんて知ったこっちゃない」というタイプで、今の自分からすると信じられないのですが、当時は本当にそんな感じだったと思います。
母からはよくこう言われました。
「あんたは、ひねくれもんやねぇ」
当時はひどい言い方だなと思っていましたが(笑)、今振り返ると、これが実は自分にとって大きなキーワードになっています。
「自分はひねくれもんだ」とどこかで開き直ったことで、
“人と同じことをするのが嫌だ”“みんなと一緒だと気持ち悪い”という感覚がだんだん強くなった。
結果として、常にちょっとズレた選択をする。それがのちのち、「人と違う視点で物事を見る」ことにつながっていきます。
転校がくれた「人の優しさ」との出会い
とはいえ、小さい頃は本当に“自分中心”。人の気持ちを考えたり、人の立場に立って物事を見ることがほとんどできませんでした。
そんな私の人生が大きく変わるきっかけは、小学校の途中で経験した「転校」でした。
引っ越しをきっかけに、新しい小学校へ転校することになりました。子どもにとって、転校は一大事です。でも、実際に行ってみると、意外なことが起きました。
「転校生」というだけで、クラスの子たちがやたら優しくしてくれるんですね。話しかけてくれたり、一緒に遊ぼうと誘ってくれたり、何かと気にかけてくれる。
それまで「自分、自分」だった私は、そこで初めて“人から優しくされる”“受け入れてもらう”という感覚をちゃんと味わったように思います。
ああ、人って、こんなふうに誰かに関わることができるんだ。自分も、誰かにこういう接し方をしてみたいな。
そう思い始めたのは、この転校がきっかけでした。
「変わったね」と言われた中学時代
その後、中学校に上がると、転校前の小学校の同級生とまた一緒になります。再会した皆が、私と話した後こう言うんです。
「のぶくんはずいぶん変わったねぇ」
それを聞いて、逆に自分でも驚きました。「そんなに変わったのか、俺」と。
でも、言われてみれば、確かに人との距離感や接し方は、転校前とは違っていた。昔のようなトゲトゲしさが少しずつ抜けて、人と話すことが楽しくなっていたのだと思います。
この経験が、今の「会話から価値を生む」というメディアトーキングの原点の、一番最初の「芽」だったのかもしれません。
“普通の人”だと気づいた通知表
一方で、勉強の面ではまったくパッとしませんでした。中学の成績はオール3。
その通知表を見たとき、「自分は本当に“普通の人”なんだな」と妙に納得したのを覚えています。
飛び抜けた才能もない。ずば抜けて頭がいいわけでもない。スポーツがめちゃくちゃできるわけでもない。
ただ、少しだけ人より強かったのは、好奇心と、しゃべることが好きな性格でした。
歴史の本を読むのが好きで、好きなことにはそれなりにのめり込む。でも「研究者になるほど極める」タイプでもない。
マニアックな傾向はあるけれど、マニアではない。まさに「中途半端な普通の人」です。
ひねくれもんの少年が、つながりに救われていく
そんな自分が、なぜ今、メディアトーキングという名前を掲げて、人と人、企業と企業をつなぐ仕事をしているのか。
その背景には、小さな転機と、数えきれない遠回りがあります。
ひねくれもんで、我が強くて、自己中心だった少年が、
人とのつながりに救われ、会話の楽しさに気づき、少しずつ“人の中で生きる自分”に変わっていく。
第1回は、その入口の話でした。
次回は、
「やりたいことがない若者が、ジーンズ屋のバイトで見つけたコミュニケーションの手応え」
について、もう少し具体的にお話ししていきます。