Column

11年前、ボツになった記事を終戦の季節にもう一度。

11年前、ボツになった記事を終戦の季節にもう一度。

8月になると、毎年思い出す記事があります。
2015年、私が経済新聞社の記者だった頃に書いた記事です。
仕事を通じて知り合った方のお父様が、シベリア抑留を体験され、その貴重な手記を読ませていただきました。ぜひ多くの人に知ってほしいと思い記事を書いたのですが、当時は経済新聞という媒体だったこともあり掲載には至りませんでした。
終戦記念日の15日に合わせ、8月13日号への掲載を考えていただけに、今でも少し残念な気持ちが残っています。
あれから11年。
戦後80年を超え、戦争体験を直接語れる方は年々少なくなっています。だからこそ、当時掲載されなかったこの記事にも、今だからこそ意味があるのではないかと思いました。
当時の原稿をほぼそのまま掲載します。校正前の原稿のため、現在の文章と比べると言い回しなど気になる部分もありますが、当時の空気も含めて読んでいただければ幸いです。

戦後70年、シベリヤに眠る英霊

今年戦後70年の節目を迎えるが、ふとしたことから江崎泉氏の父親江崎嘉雄氏が記した「シベリヤ(抑留)の体験記」と題した手記をいただいた。
嘉雄氏は1945年、敗戦間際の7月23日、北満漱江の独歩大隊に召集され、陸軍歩兵二等兵として帝国陸軍へ在籍。ソ連軍侵攻に備えていた矢先、チチハル駅にて終戦を知る。
そこから逃亡を計るも、ソ連軍へ自ら投降。それから5年間を捕虜として過ごした。
文章に悲壮感はなく、本人曰く「責任のない二等兵らしく」とあるが、手記を読み進めるうちに、炭鉱での重労働や、氏が一番過酷だったと記した真冬の木の伐採作業など、生と死が実に紙一重であったことが読み取れる。
次々と仲間が亡くなっていく失意の中で厳寒とたたかい、粗衣粗食で生き延びるために様々な知恵を使い、食料確保から重労働からのサボタージュなどを行ううちに、人としての尊厳は完全に地に落ちたと氏は語る。
そのような中でも仲間同士で助け合い、ちょっとした親切がのちに命を救われるようなこととして自分に返ってきたことで、
「善い事は何処ででも、誰にでも施しておくものと思ひ知らされたものです」
と記し、氏の息子の泉氏にも「誰にでも親切はしておけ」と何度となく語っていたという。
戦後70年。異国シベリヤには、過酷な労働に耐え切れず倒れ、荒野に眠る7万人の英霊がいる。
(山元将永)

この記事を書いたのは11年前ですが、今読み返しても心に残るのは、過酷な体験そのものではありません。
極限状態の中で語られた「誰にでも親切はしておけ」という一言です。
人間の尊厳が失われるような環境を経験した人だからこそ、この言葉には重みがあります。
時代が変わっても、人が人を思いやることの大切さは変わりません。
戦争を体験した世代から直接話を聞ける時間は、もう多く残されていません。
だからこそ、その言葉や記録を残し、次の世代へ伝えていくことも、私たちの役目なのかもしれません。