小林征郁(こばやし まさふみ)物語
「もう一度、波に立つ」〜失った先で見つけた、自分の生き方〜
小林征郁という生き方 波の上で切り拓いた、新しい人生のかたち
群馬県前橋市出身。
サーファー、実業家、そして伝え手。
小林征郁は、一般的な肩書きでは語りきれない存在である。
その人生は、一度大きく途絶え、そして再び自らの手で繋ぎ直されたものだ。
2000年。
20歳のとき、サーフィンの帰り道で交通事故に遭う。
脊髄を損傷し、車椅子生活となる。
それまで当たり前だった「歩く」という行為を失い、
人生は大きく方向を変えた。
しかし、彼は止まらなかった。
2002年、リハビリを経て社会復帰。
地元群馬のサーフショップで働きながら、再び海との接点を持ち始める。
同年、アメリカ・サンディエゴで「ニーボードサーフィン」と出会う。
膝で波に乗るスタイル。
それは、サーフィンを諦めていた彼にとって、
人生をもう一度取り戻すための“鍵”だった。
その後、海外での経験を積みながら視野を広げ、
2008年にはアメリカへ語学留学。
帰国後の2012年、愛知県東海市にて
カフェ「Peace Cafe」を開業する。
それは単なる飲食店ではない。
人が集まり、語り、
それぞれの人生が交差する場所。
自身が多くの人に支えられてきた経験から、
「今度は自分が誰かの居場所をつくる側へ」
という想いが形になった場所だった。
競技の世界でも、その歩みは止まらない。
2016年、
アダプティブサーフィン世界大会に日本代表として初出場。
以降、2023年まで連続して日本代表として出場し続ける。
さらに、世界を転戦するプロツアー
AASP(Adaptive Surfing Professional Tour)にも参戦。
かつて「できなかった」サーフィンで、
世界と戦う存在へと変わっていった。
そして現在。
彼の活動は競技にとどまらない。
全国の学校やイベントで講演を行い、
自身の経験をもとに「生きること」「挑戦すること」を伝えている。
飾らない言葉で語られるそのメッセージは、
子どもたちだけでなく、大人の心にも深く響く。
さらに2026年、
群馬キワニスクラブのアンバサダーに就任。
地域社会への貢献、
次世代への支援という新たな役割を担いながら、
活動の幅を広げている。
彼の人生は、順風満帆ではない。
むしろ、その逆だ。
すべてを失う経験をしたからこそ、
もう一度自分の人生を選び直してきた。
サーファーとして。
経営者として。
そして、一人の人間として。
小林征郁の物語は、
ここから本編へと続いていきます。
小林征郁(こばやし まさふみ)物語 「もう一度、波に立つ」〜失った先で見つけた、自分の生き方〜
第一章:正月に生まれた“真ん中の男”
1980年1月2日。
新年の空気がまだ街に残る中で、彼は生まれた。だが、その誕生日はいつも少しだけ不憫だった。
「この前やったでしょ?」
クリスマスと正月を経たその日は、祝福の熱が冷めた後にやってくる。プレゼントは一緒にされる。お祝いも、どこか流れ作業のようだった。それでも彼は笑っていた。
いや、笑うしかなかったのかもしれない。
群馬県前橋市。三人兄弟の真ん中。
父は大工。現場に生きる職人。母は家庭を守る存在。兄は少し大人しく、弟は年の近い相棒。そして彼は——
「騒いでるのは、だいたい俺」
そう言い切れるほど、エネルギーに満ちた少年だった。
第二章:自由の中で育った覚悟
父は多くを語らない人だった。怒ることも少ない。干渉することもない。だが、芯にある言葉は一つだった。
「お前の人生だろ」
やりたいことはやれ。ただし、その責任は自分で取れ。その言葉は、命令ではない。放任でもない。覚悟を伴う自由だった。彼はその環境の中で育つ。家の中で騒いでも、夜通し遊んでも、母は多少の小言を言うだけで、父は黙っていた。ただ一つ、越えてはいけないラインだけは、静かにそこにあった。
小学校三年から始めた野球。体を動かすことは得意だった。勉強はできなくても、体育だけは常に評価が高い。中学では本格的なチームに入り、高校も推薦で進学する。だが——そこから、少しずつ歯車が狂い始める。やんちゃな仲間。夜の街。バイクのエンジン音。
「そっちの方が、かっこよく見えた」
理由はそれだけだった。家庭環境が悪かったわけでもない。誰かに強制されたわけでもない。ただ、自分で選んだ。高校を辞めるという選択も。
第三章:職人としての始まり
学校を辞めて、数日。「遊べる」と思っていた。だが現実は違った。
「暇なら手伝え」
父の一言で、現場に立たされた。そこから、彼のもう一つの人生が始まる。昼は大工。夜は遊び。だが、どんなに夜遅くまで遊んでも、朝には必ず現場に立った。眠くても。だるくても。そこだけは崩さなかった。
「それをやらなかったら、終わると思ってた」
遊びも本気。仕事も本気。その“線引き”は、この頃すでに出来上がっていた。
第四章:初めての挫折——サーフィン
18歳。車の免許を取った。それが、すべての始まりだった。仲間と海へ向かう。
群馬から何時間もかけて。初めてのサーフィン。週に一度。それが限界だった。それでも、通い続けた。夜中に群馬を出て、朝日とともに海に入り、夕方には帰って仕事。その繰り返し。
——それまで、スポーツで苦労したことはなかった。
野球も、スキーも、スノーボードも。群馬という土地柄、雪に触れる機会は多く、体を動かすことに不自由を感じたことはなかった。どんな競技でも、ある程度はこなせる。
それが“当たり前”だった。
だが——サーフィンだけは違った。
立てない。
進めない。
そもそも、沖にすら出られない。今まで経験したことのない感覚。
「できない」
それを、初めて突きつけられた。プライドが傷つく。悔しさが込み上げる。仲間たちは次々とやめていく。
「難しいから」
その言葉を聞くたびに、なぜか自分の中に火がついた。
「じゃあ、やるしかないだろ」
できないからこそ、やる。悔しいからこそ、やる。その感情だけが、彼を海へ向かわせ続けた。ある日、初めて立てた。ほんの一瞬。波の上に、自分の体が乗った。その瞬間、確信した。
「これだ」
それは、これまでのどのスポーツとも違う、初めて“乗り越えて掴んだ感覚”だった。
第五章:すべてを失った日
2000年9月11日。
サーフィンの帰り道。大雨の高速道路。ハイドロプレーニング現象。タイヤが水に浮き、操作不能になる。ブレーキも効かない。ハンドルも効かない。車は制御不能となり、そのまま壁へ・・・彼の身体は外へ投げ出された。 体は宙を舞い、路上へ叩きつけられた。記憶は、そこで途切れる。目を覚ましたとき、目の前には両親がいた。母は泣いていた。その光景を見た瞬間、彼の口から出た言葉は一つ。
「ごめん」
後悔だった。何よりも、親への申し訳なさだった。
そして——
足は動かなかった。それ以外は全く覚えていない。
医師の言葉。
「一生、歩けない」
診断は脊髄損傷。車椅子生活。二度と元には戻らない。普通なら、絶望する。それでも彼は、こう思った。
「やるしかない」
だが現実は違った・・・術後のICU。そこは地獄だった。痛み。眠れない夜。終わらない苦しみ。1分おきにナースコールを押す。
「痛い」
「助けてくれ」
それでも、時間は進む。それでも彼は折れなかった。理由は一つ。サーフィンで経験していたからだ。
「できない状態から進む」
この感覚を、すでに知っていた。そして彼は決める。
「落ち込んでてもしょうがない」
その一言で、すべてを切り替えた。自分で起こした事故。誰のせいでもない。ならば、やるしかない。
リハビリ。トレーニング。繰り返し。
目標は一つ。
「もう一度、立つ」
第六章:海への帰還と世界への挑戦
心の奥には別の想いがあった。
「海に戻りたい」
サーフィンをしたい。その気持ちは消えなかった。だが方法が分からない。情報もない。前例もない。それでも諦めなかった。
2002年、転機が訪れる。アメリカ・サンディエゴ。そこで出会った言葉。
「正座できるなら、できるよ」
ニーボード。膝で乗るサーフィン。その瞬間、すべてが繋がった。
「これだ」
帰国後、仲間の支えで海に戻る。仲間が支えてくれた。背負い、運び、海へ入れる。
「行くぞ」
仲間の一言で、彼は再び波に向かった。海に入った瞬間。
「帰ってきた!やっぱり海は最高だな」
最初は怖かった。波が見えない。体が思うように動かない。だが、それでも進んだ。手で漕ぎ、膝でバランスを取り、波に乗る。少しずつ、少しずつ。彼は、単なる復帰ではなく “新しい道を切り拓く側”になっていく。
第七章:波の上から広がった人生
海に戻ったその日から、彼の人生はもう一度動き出した。ただ波に乗るだけでは終わらなかった。サーフィンは、彼に「生き方そのもの」を問い直させる存在になっていく。やがて彼は、日本代表として世界の舞台に立つことになる。かつては沖に出ることすらできなかった男が、今度は世界の海で、各国の選手と同じラインに並び、波を待つ。勝つために戦うというよりも、そこに立っていること自体が、すでに意味を持っていた。さらに、プロツアーにも参戦するようになる。「できない」と言われた身体で、
世界と戦う場所に自ら立つ。それは、誰かに用意された道ではない。自分で切り拓いた道だった。
しかし彼の挑戦は、競技だけにとどまらなかった。
2012年。飲食店の「Peace Cafe」を開業する。
それは単なる飲食店ではなかった。人が集まり、語り合い、それぞれの人生が交差する場所。
「自分がいろんな人に支えてもらったから、今度は自分が誰かの居場所をつくりたかったんです」
そう語る彼にとって、店はビジネスであると同時に、“恩返しの形”でもあった。
さらに彼は、子どもたちの前に立つようになる。学校やイベントで、自身の経験を語る。
事故のこと。
後悔のこと。
それでも前を向いて生きていること。飾らない言葉で伝えるその姿に、子どもたちは静かに耳を傾ける。
「伝えられるうちに、伝えた方がいいと思うんですよね」
彼は、静かにそう言った。その言葉の背景には、母を突然失った経験がある。伝えたいことがあっても、伝えられないまま終わってしまう現実を、身をもって知った。だからこそ今は、想いを先送りにしない。その意識は、父との関係にも変化をもたらした。以前は多くを語らなかった父とも、気づけば自然と連絡を取り合うようになっていた。
用事がなくても電話をする。顔を見に行く。いつの間にか、その距離はぐっと近づいていた。
「今はもう、友達みたいな感じですね」
そう笑って話すその表情は、どこか穏やかだった。失ったからこそ気づいたこと。そして、その気づきを行動に変えている今がある。彼にとって家族とは、“当たり前にあるもの”ではなく、“大切にし続けるもの”へと変わっていた。
彼の人生は、もはや「サーファー」という一言では語れない。競技者であり、経営者であり、そして、誰かの人生に影響を与える“伝え手”でもある。すべては、あの日海に戻ったところから始まった。波の上で取り戻したのは、サーフィンだけではなかった。
自分の人生そのものだった。
第八章:失った先に見えたもの
海を見つめながら、彼はこう語る。
「失ったものは、正直めちゃくちゃ大きいです。でも……今となっては、得たものの方が大きいって思える自分もいるんですよね。」
健常者だった自分。車椅子になった自分。両方を知っている。
「両方の視点を持てたことは、自分の財産だと思っています」
そして彼は、静かに続ける。
「陸にいるより、海に入っている方が自由なんですよ」
その言葉は、強がりではない。すべてを受け入れた人間の、本当の言葉だった。
■結び:終わらない挑戦
彼の人生は、特別な物語ではない。ただ一つ、違うことがある。
「できないことから逃げなかった」
それだけだ。できないことに向き合い、それでも進み続ける。その先にしか、未来はない。25年経った今も、彼は続けている。歩くことを。
サーフィンを。どちらも、まだ途中だ。波は、同じものが二度と来ない。人生も同じだ。同じ瞬間は、二度とない。
だからこそ——
今、この瞬間をどう生きるか。彼は知っている。すべてを失っても、
もう一度立てることを。
「障がいを越えて誰もが波に挑む」国際大会、Japan Open Adaptive Surfing Championship
2026 のご案内
この大会は、世界ランク上位の選手たちが自ら企画・運営し、2026年5月に静岡で開催する日
本最大級のアダプティブサーフィン(障がい者サーフィン)の祭典です
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▼ 2/27公開!クラウドファンディング(お気に入り登録お願いします
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▼ これまでの歩み(プレスリリース)
・2026年2月:最新リリース
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000006.000171630.html
・2025年12月:開催決定について
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000005.000171630.html
・2025年11月:プロジェクト始動
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000004.000171630.html
